百鬼夜行SS

益田の独白
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 薔薇十字探偵社の日常に平穏は無い。
 それは依頼の有無に関わらず、探偵の在不在に依るところが大きい。
 取り分け最近の榎木津は滅法暇を持て余しているようで、他人が視界に入れば何かにつけて散散罵倒するし、そうでなければ退屈だ芸を見せろと、仕事――この場合、榎木津が厭う調査が必要な業務――の邪魔をして来る。
 だから態態喫茶店に出向いてまで報告書を書いているのだ。
 探偵助手、益田龍一はそうやって自分自身に理由を付けた。
 女店員が運んで来た珈琲を飲み乍ら、手帳の走り書きを改めて眺め直す。
 カップから唇を離して、小さく溜息を吐いた。
 ――何だろうなあ、これ。
 罫線を無視して踊る文字の羅列は、時系列こそ合っているのだが話し乍ら書いたものであるから要旨が掴み難い。
 どんな状況でも堂堂と記帳出来る刑事時代から、聞き取りは得意でも速記が苦手であった。後後の記録作成に当たっては必ず難儀したものだ。何度も何度も書き直し、記憶を反芻し筆を走らせ、それでもまた書き直し、提出すれば駄目出しを喰らう。刑事は書類作成が仕事だと、直属の上司だった山下には善く云われた。勿論、じゃあ貴方が作ってくださいよ――とはとても云えなかった。所詮は組織の末端。職業階級(ヒエラルキー)を恨めども楯突くことなど出来ない。
 別に自分が卑屈な所為だけではないと益田は思う。
 組織とは即(すなわ)ち檻だ。本人の望むと望まないとに関わらず、四肢は肩書きに絡め取られ背には見えない重圧を負わされる。大抵の人間は自分を肩書きで呼ぶ。役職がつけば内部の者にすら名前で呼ばれなくなる。自分の意志の外で責任が生まれる。善良な民間人にお巡りさんだとか刑事さんだとか呼ばれる度に、自分に貼られた不可視の符(レッテル)を認識する。個を殺すことが組織の維持であり、集合が巨大であればあるだけそれは顕著である。ほぼ無限に補充の利く手札のひとつでしかないことに若い頃は漠然とした不安を抱いていた。歳を重ねるに連れてそんなことは忘れていくと――思っていた。
 ――だから僕ァ警察を辞めたんですよ。
 誰かに刑事だったのでしょうと云われたら、最後はこう締めることにしている。我が国に於いて未来永劫の絶対を約束されている権力に対する、僅かばかりの抵抗と云えるかも知れない。

 漸く一通り流れを纏めたものが出来上がった。後はこれを元に清書するだけである。見慣れた筆跡を載せた紙を束ねて端を揃え、乱雑に封筒に突っ込む。思ったより時間はかからなかったが、適当な雑誌を選んでそれを読み乍ら時間を潰すことにした。このまま探偵社に戻ると、喫茶店と報告書の関連性を幻視されて榎木津に怒られるからだ。
 榎木津は仕事の邪魔をする割に隠れて作業されることを嫌う。こうやって喫茶店で報告書を作ったりするようになったのはそう遠い昔でもないが、最初の頃は榎木津の体質をすっかり忘れて豪く叱られたものだ。すぐに隠れるから船虫男だと云われたこともある。和寅の油虫(ゴキブリ)男と並んで大層不名誉な渾名だった。流石に毎度これでは身が持たないので、益田は喫茶店にいる内に色色なものを見ておくことにしたのだ。そうすることで脳に保存される情報がいくらか混乱するのではないか――つまり、榎木津の眼を誤魔化せるのではないか――そう考えたのである。効果の程は定かではないが、これは既に慣例となっていた。
 そうした“儀式”の為に、珈琲をもう一杯注文しようと店員呼ぶのに顔を上げる。それと同時にふと窓の外、見慣れたヘーゼルブラウンの――
「あ」
 ――榎木津さん。
 咄嗟に顔を背けたが、気付かれはしなかっただろうか。
 この喫茶店は事務所のある榎木津ビルヂングに程近い。だから、榎木津が出掛けた場合は今のように目撃する可能性もある。依頼人と会っているならばどうとでも言い訳出来る――どちらにしても厭な顔をされるのには変わらない――のだが。
 事務所に押し掛けて助手を名乗るようになった頃、中禅寺に云われたことを思い出す。
 ――人間の脳はそれほど馬鹿じゃあない。
    一度見たのならば必ずどこかに記憶されるのだよ。
    刑事風に云うなら視覚の不在証明(アリバイ)と云うところかな。
 その不在証明は印象的であればあるほど確実に記憶されると云う。つまり、見てしまってからでは遅いと云うことだ。いつもならば意識的に窓の方を見ないようにしていたのだが。――否、或いは今迄榎木津を見ずに済んだのは偶然だったのかも知れない。あの長身は目立つから視界の端に触れただけで厭でも目を惹かれてしまう可能性もあった。
 ――それは兎も角。
 見たものは見たのだ。喫茶店の窓と外套を纏う榎木津。忘れようと努めたところで事務所に戻って探偵を見たならば、その瞬間に厭でも想起されるだろう。記憶とは連動するものなのだそうだ。そして文字通り見透かされ、このテーブルと手帳と報告書と珈琲も、何もかもがばれてしまうに違いない。
 あの男には隠すだけ無駄なのだ。
 ――難儀な人だなァ。
 探偵の体質に就いて、益田はそれ以上の感想は持てなかった。益田自身の記憶にも視られたくないモノは山程ある。だからとて、それを堰き止める術は榎木津に――勿論益田にも――無い。自らも例外なく隠し事を許さず天衣無縫に振舞うのは、彼が本来不可侵である筈の領域を無意識の内に抉じ開けてしまう体質故か。
 常日頃から神を名乗り、他人(ひと)より高い位置に立つ癖に――無力な下僕すら、神と同じ位置に引き寄せようとでも?
 だから難儀だと云うのだ。
 元より探偵と同じ位置に立てる人間など、残酷な程少ないのに。

 珈琲の残滓を呷って益田は席を立った。勘定を済まし、出口の扉を開ける。扉と共に鳴った鐘の音は事務所のそれとどこか似ていた。
 喫茶店を出て、益田は大きく伸びをした。やれやれと、飛び切り深い溜め息を吐く。
 ――探偵殿に叱られに参りますか。

 薔薇十字探偵社の日常は、すぐそこにある。

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